「竹林翁」 と呼ばれた坪井伊助 (1843~1925) は、濃尾平野を見下ろす扇状地が広がる
今の岐阜県池田町に生まれ育った。地味がやせている扇状地で収入になる作物を育てようと、まず茶畑をつくり、続いて竹林経営に取り組んだ。
坪井は自宅近くの竹林で研究を進めた。
竹の種類に応じた利用法をさぐり、移植法や栽培法、害虫駆除の方法も研究した。
タケノコなどの食用よりも竹材としての出荷を中心に、竹の種類を増やし、めずらしい竹を
好んで植えた。
坪井の研究に注目している人物がいた。
夏目漱石の推薦で東京朝日新聞に小説 「土」 を連載し終えたばかりの長塚節は1910年暮れ、坪井を訪ね、事業のための竹の育て方を学んだ。
翌年には茨城県の自宅に坪井を招き、栽培指導も受けた。
正岡子規の門弟で 「写生」 を学んだ長塚は、小作人90人を使う地主でもあった。
明治の終わり、農村の貧しさを思想や理想をまじえずに 「土」 に具体的に描き込む一方、
竹林の経営や肥料の改良を通じ、農村の暮らしの改革に取り組んでいた。
竹の産地である北関東で坪井の研究は注目された。
坪井の成果は13年に刊行された 「実験竹林造成法」 や14年の 「竹類図譜」 に
まとめられた。竹研究に欠かせない文献だ。しかし、地元では茶は特産になったが、
竹林は坪井の死後、徐々に荒れ、茶畑に代わった。
池田町の北隣、揖斐川町にある城台山ふもとの竹林を訪ねた。
土門拳が 「竹屋の高間」 と名付けた高間新治さん(87)が頻繁に撮影する竹林だ。
ここで撮った写真などをまとめ、昨年 「竹精」 と題する6年ぶりの写真集を出し、
東京と名古屋で個展も開いた。
高間さんはこの竹林から歩いて5分ほどの写真館で生まれた。
取りたくてしかたのないときに召集され、シベリアでの抑留を経て48年秋に戻った。
その冬に初めて雪が積もった朝、カメラを持って竹林に入った。
ときおりバーンと破裂音が響いた。アーチのようにしなって雪の重みに耐えていた竹が
裂けた音だ。そんな竹に、厳冬の抑留生活が重なり、生き残れなかった仲間たちを思った。
コンテストには竹の写真ばかりを送り、審査員を務めていた土門に覚えられた。
作家の宇野千代と土門を根尾の薄墨桜に案内したこともあった。
今も間伐が行き届き、ほどよく光が入る貴重な竹林だ。
しかし片隅に竹材として出荷しきれない竹が平積みで残る。
翌朝には雪が積もりそうな夜、高間さんは撮影機材を整える。
「宝の山は近くにあった。行くたびに、竹は日本人の故郷なのだと実感しています」 (六郷孝也)
「雪竹林原景色」 と題した高間新治さんの作品。節に着いた雪が竹林の光景を一変させる
高間さんが好んで撮影する竹林。この冬はまだ雪が積もっていない
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